新世紀のはじめに(2001.1.1)
Happy
New Century & Year!
世紀の変わり目でもあった,2000年から2001年の間の年末年始,私は自宅近くで過ごした。

新世紀を迎えたサンシャイン60(2001.1.1)
年の変わり目にはいつもサンシャイン60では花火が打ち上げられる。池袋周辺の「行く年・来る年」だ。新世紀を迎えたはじめの1時間あまり,サンシャイン60の南側の窓にはこのようなメッセージが。


法明寺(左)と鬼子母神堂(右)(2001.1.1)
花火とメッセージのもと,除夜の鐘をつく順番を待って,多くの住民が早くから並ぶ。桜並木が満開の時の写真はbicycleのページへ。
これと並行して初詣も始まる。10月中旬の御会式には各地から多くの人が集まる鬼子母神堂だが,この時は地元の人たちのものだ。これが雑司ヶ谷の年越し風景だ。
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消えゆくもの


廃業した銭湯・若葉湯(1997.5)
都電荒川線鬼子母神前停留所からすぐの所にあった銭湯。経営者の体力的限界が廃業の理由。湯加減も良くゆったりとしたつくりで,ユニットバスでは伸ばせない足を伸ばすのに良かったのだが。廃業後間もなく取り壊され,駐車場になった。


ポリスボックス(2001.1.1 & 6.2)
文京区目白台の故田中角栄邸の近くにはいつも多くの警察官がいて,通行人にもにらみをきかしていた。大学の帰りにいつも通っていた自分にも然りであったし,検問も多かった。このようなポリスボックスも近辺に幾つもあった。だが田中角栄が倒れて以降,警官の数も,こうしたボックスも減り,田中角栄の死以降,ついには新江戸川公園に近いこの一つだけになった。栄枯盛衰を象徴している。(左)
ところが,田中角栄の娘・真紀子が外相になった途端,警官とポリスボックスが増えた。とはいうものの往時には及ばなかった。それも外相辞任・衆院議員辞任で段階的に消えていった。(右)

神田川近くの長屋 (豊島区高田 2003.3.10)
都電早稲田停留所近くの神田川近くの一角にはこうした長屋がいくつもあったが,この数年でかなりの割合で解体され,新たな建物になっている。3棟ある中で右端が大きく傾いているのだが,他の棟につなぎ合わせて,今なおその場にあり続けている。引きずられているようにも見えるが,踏ん張りというか執念すら感じさせるものがある。少なくとも私が知る限りでも十数年この状態のままだ。ピサの斜塔ならぬ高田の斜塔というべきか。もっとも住人にとっては斜塔ではなくシャトーなのだろう。

解体されようとしている神田川近くの長屋 (豊島区高田 2007.7.5)
この神田川近くのシャトーに終焉の時が来た。ほぼ向かいにある2004年末の火事の焼け跡ともに,消えようとしている。


解体されようとしている神田川近くの長屋の内部 (豊島区高田 2007.7.5)
住人が去った後のシャトーの内部を奇しくも垣間見ることができた。この掘り炬燵での団欒は安らぎをもたらしたのだろうか…


年末の火事で焼失した神田川近くの住宅兼店舗 (豊島区高田 2005.1.1)
2004年12月28日,神田川近くの住宅兼店舗で火災が発生,事実上棟続きの長屋状になっている4世帯分が焼失した。焼け跡の焦げ臭い臭いが残るなか,大晦日の雪に見舞われ後かたづけも大変。木造ながらモルタルで石やコンクリート造りのようなデザインが施されていた。
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早稲田大学第一・第二学生会館
最近では学生専用マンションのことを「学生会館」ということもあるが,ここでいうのは,永らく早稲田大学の学生自治文化活動の拠点となってきたもののことだ。1990年代後半に入って早大当局は,学生自治会の公認を取消したり,毎年延べ十万人もの来場者があった早稲田祭を中止させたりするなど,学生の自主的・自治的活動に対する敵対的姿勢をあらわにしてきた。今回も学生がいなくなる夏休みを狙って,7月末,両学生会館の閉鎖を強行した。

早稲田大学第一学生会館(2001.7.10)
永年にわたり,さまざまな活動の拠点として利用されてきたのがこの第一学生会館である。
時々の世相を撃つスロ−ガンが書かれたステッカーも貼られていた。

早稲田大学第二学生会館(2001.7.10)
69年の第二次早大闘争の課題の1つは,当時竣工したこの第二学生会館の管理権を学生側に勝ち取ることであった。これに対する早大当局の鎮圧策は熾烈で,それまで門がなくいつでも自由に出入りできるといわれた早大キャンパスに,最近では一定緩和されつつも今なお継続しているところの,休日・夜間のロックアウトが始まり,第二学生会館は十年以上閉鎖されたままであった。

封鎖された第一学生会館(2001.8.10),第二学生会館地下・稲毛屋のコーヒー券
7月末で両学生会館の閉鎖が強行された際,夜を徹しての反対集会が開かれ,久々に早大学生運動がマスコミに紹介された。8月に入っても反対運動が続いたことから,当局は両学生会館を工事用バリケードで封鎖した。
第二学生会館の地下には稲毛屋という食堂があり,壁には前衛的な絵が描かれていた。これを撮影しておかなかったのは痛恨の極みである。代わりに同店のコーヒーサービス券を載せておく。

第二学生会館から西早稲田キャンパスを望む(2001.7.10)
第二学生会館の上層階が開放されたのは90年代に入ってからではないだろうか。手前が昔の面影を残しているのに対して,画面後方の高層建築物は,バブル期以降の変貌を示している。手前左の緑屋根の建物は旧図書館。安部球場跡に現在の中央図書館ができるまで,これが早大のメインライブラリーだった。今では信じられないかも知れないが,当時,学部学生用閲覧室には冷房がなかった。
Gronud Zero
2001年9月11日の攻撃事件によって崩壊したニューヨーク・世界貿易センタービルの跡地は“Ground Zero”と呼ばれている。第一学生会館跡地もまた“Ground Zero”の様相を呈している。

第一学生会館跡地(2002.10.2)と第二学生会館跡地(2003.3.10)
同時期に閉鎖強行された第一・第二の両学生会館だが,第二学館の解体が始まったのが2002年の夏になってからであったのに対し,第一学館は閉鎖からまもなく解体された。これが物理的理由によるものでなく,早大当局による政治的意図に基づくものであることは,今更説明する必要もないことであろう。


8号館跡地(2002.10.2)
永らく法学部棟として使われてきた8号館は2002年度に入って解体が始まり,夏には更地になった。いわばもう一つの早稲田版“Ground Zero”だ。このあとに建つ建物はバブルの亡霊であり早大再編のシンボルといえるだろう。
ここでも…

解体される東京音大校舎 (2004.9)
大学再編やキャンパスの再開発に伴い,キャンパスも様変わりしつつある。解体されるのは単に旧くなったとか手狭になったとか言うものだけではなく,学生の既得権を伴うことが多い。2004年では法政大学学生会館の解体強行がその最たる例であるといえよう。早大・法大ほどではないが,私の近所にある東京音楽大学でも同様のことが進んでいた。ここで解体されつつある建物には学生の自主活動や福利厚生のための施設が入っていた。
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